丈夫で美しい、暮らしの器 砥部焼

■砥部焼は、「使ってこそ生きる器(用の美)」として知られ、日本を代表する磁器の一つです。砥部焼を一言で表すと、「ぽってりとした厚みのある白磁に、鮮やかな藍色の絵付け」です。

見た目と質感

白磁と呉須/透き通るような白い地肌(白磁)に、「呉須」と呼ばれる藍色の顔料で手書きの模様が描かれています。この白と藍のコントラストが最大の魅力です。

厚みと丸み/多くの有田焼や九谷焼のような薄くて繊細な磁器とは異なり、砥部焼は厚手でぽってりとしたフォルムが特徴です。手に持ったときに温かみを感じさせます。

圧倒的な実用性(耐久性)

「夫婦喧嘩で投げても割れない」これは砥部焼の頑丈さを表す有名な例え話です。非常に硬く焼成されているため、ヒビや欠けが入りにくく、熱にも強いです。

日常使いの器高級品として飾るよりも、毎日の食卓でガシガシ使うことに適しています。保温性が高いため、うどん鉢やコーヒーカップとしても重宝されます。

手書きの伝統

現在でも機械化に頼らず、職人が一つひとつ手書きで絵付けを行う窯元が多いです。

砥部焼の歴史

砥部焼の歴史は、「資源の再利用」から始まったという興味深い背景があります。
砥部という土地は、もともと「伊予砥(いよと)」と呼ばれる砥石の産地として有名でした。

1775年頃、砥石を切り出す際に出る大量の石屑が産業廃棄物となっていました。これを有効活用できないかと、大洲藩の藩主が命じ、杉野丈助(すぎのじょうすけ)らが磁器作りに挑戦しました。多くの失敗を経て、ようやく白磁の焼成に成功しました。これが砥部焼の始まりです。

明治時代に入ると、中国や東南アジアへ向けた輸出用食器(「伊予ボール」と呼ばれた)として生産が拡大しました。しかし、大量生産による品質の低下や不況により、一時衰退の危機に瀕します。

昭和に入り、柳宗悦(やなぎむねよし)やバーナード・リーチら「民藝運動」のリーダーたちが砥部を訪れました。彼らは、砥部焼の手仕事の温かみや実用的な美しさを高く評価しました。彼らの助言を受け、現代に通じるモダンで力強いデザインが確立されました。これにより「安価な食器」から「工芸的価値のある日常食器」へと地位を確立しました。そして1976年、国の「伝統的工芸品」に指定されました。

現代の砥部焼

現在、砥部町には約100軒ほどの窯元があり、伝統を守りつつ新しい挑戦を続けています。近年では、伝統的な藍色だけでなく、パステルカラーを用いたり、洋食に合うモダンな形状のものを作ったりする若い作家や女性作家が増えています。

西暦 年号 事項
700文武4大下田(原町)にて須恵器が焼かれる。
747天平19正倉院文書に「伊予瓦」が献穀された記憶あり。
1740元文5大洲秘録に砥部焼の名称があり、陶器が焼かれていた。
1750宝永4大洲藩主加藤泰候が砥石屑を用いて磁器製造を命じる。
1777安永6杉野丈助が磁器の焼成に成功する。
1778安永7大洲藩の経営であった上原窯を門田金治が譲り受ける。
1813文化10向井源治が五本松に窯を開く。
1818文政元向井源治が川登陶石を発見する。
1828文政11亀谷萬蔵が肥前より錦絵の技法を伝える。
1857安政4唐津役所(新谷)、瀬戸物役所(大洲)が設置される。
1875明治8万年陶石が発見される。
1878明治11五本松が池田助八の陶工を招き、型絵染付が伝わる。
1885明治18砥部焼の清国(中国)への輸出が始まる。
1887明治20下滝・伊予両郡の陶磁器同業組合が設立される。
1890明治23愛山窯で淡黄釉磁を焼き始める。
1893明治26シカゴ世界博覧会で淡黄磁が入賞する。
1916大正5神戸の松鶴亭・池田豊兵衛が砥部焼の直輸入を始める。
1931昭和6村山砥部研究会が淡黄釉を完成させる。
1953昭和28柳宗悦、B・リーチ、濱田庄司が来町し、砥部焼の指導をする。
1963昭和38県工業試験場が五本松に移転される。
1972昭和51物産店にて、天皇皇后両陛下砥部焼をご視察。
1975昭和52砥部焼が国の伝統的工芸品の指定を受ける。
1986昭和61国土庁より伝統産業街作り地区指定地に指定される。
1995平成7伝産シンボル元気いわ手の愛称に砥部焼が一品選ばれる。
1996平成8砥部焼地球儀「生命の碧い星」ジュネーブ国連欧州本部に設置。